(2023.8.19日経の春秋)に、
映画「オッペンハイマー」
広島・長崎の惨劇に責任を感じ、苦悩する博士を大統領は鼻で笑って言う。
「君がやったんじゃない、私がやったんだ」。
とありました。
ヒトの原始の時代から、
ヒト自ら道具を作ってきた。
しかし、
今や、
僕たちが使っている道具やモノたちのほとんどを、僕は自ら作れない。
自ら作ることができないモノたちにより、自分の生活を成り立たせている。
こんな生活は、永続的ではないだろうと思ってしまう。
ヒトが人となり、
未知であった発見や発明や多くの技術やその革新により、
いろいろなモノがあり、
なかには、ほぼ完成形というか、完熟しているような技術もあるように思う。
そのひとつが、いわゆるところの、原爆ではないか。
一個人のみで、造り上げることや、それを使用することは、
今の現代においても、とてもできないこと。
(であってほしいとの願望もありますが。)
だから、
そのような、資金力や(軍事などの)移動させる力や、
それらの力があったとしても、それを使うかどうかの判断をする力や立場。
博士が苦悩することは、人間として当然ながらも、
大統領が、行った主体や責任の所在を明言すること、これも当然のこと。
作ることと使うことは違う。
作ってしまったモノやことは、
造形者の手から離れ、その働きや影響力を頼もうとする造形者以外の者共が利用しようとする。
後戻りはできないものだと思っている。
私がやったんだ。
良くも悪くも、僕の日常も、そんな判断の積み重ねで、今にこの時まで来ている。
次の時が来るのかどうかは、わからない。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」
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