ズレているのかもしれないけれど、
終わりを示されるのが怖いのでは。
結論が覆いかぶさってくる現実が。
文章の末尾に「。」が付いていると、
一部の若者は「怒っている」と感じて恐怖してしまうらしい。
確かに「。」の威圧感は意外と強い。
と
(2024.2.18日本海の山陰抄)にありました。
人は終わりを意識するとその時間を最大限に活用しようとする意欲が高まる
と
「DIE WITH ZERO」ビル・パーキンスさんの著書に
ありました。
その意欲の向かう先は、その課題乗り越えのためだったり、その課題から逃避して別のものに向かうことだったり、
ともかく、
その間を、残り少ない自由になる時間という強迫観念にも似たものに突き動かされるようになることがある。
終わりを告げられることに恐怖してしまう
というような受け止めだったりして
(敢えて、「。」を省きましたが、印象はいかに。)
怒っているとは、
結論を早く出せと言われているような、
君にはもう時間の猶予はないんだよと言われているような。
終わりを迎えることは、でも、いいことだ。
いつまでも引きずることもどうかと思う。
昨日の朝の、トイレの大きな方も、気持ちよく出てくれた。
(すみません。こんなこと書いて。)
スッキリした気分で、きのうを過ごせれた。
今日もそのようになる気配。
一つ一つ区切りを付けられるものはなるべくつける。
それが、その次の展開をより広いものにしてくれる。
余韻や含みを残すことで次の機会を待つような終わり方もいい。
文の「。」も恐れることはない。
どんどん区切ってなるべくわかりやすく進んでいこう。
そうでもしないと、僕のおつむはいろいろなものについてゆけない。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。」