◎誤りは速やかに改める
誤りを押し通そうとするのではなく、なるべく速やかに改める。
行政の無謬(むびゅう=誤りがないこと)はあり得ない。
責任を取る必要があれば、どの段階でとるべきかあきらかにする。
その上で、行政に不断に求められる新たな課題に果敢に挑戦する。
誤りを改める勇気は、行政体の処理能力の向上となる。
このように考えますし、そのとおりにしたい。
と言いますのも、
役場の職員は死んだような眼をしている.
多くの町民の方から言われます。
なぜなのか。
過ちを押し通そうとするから、やる気が萎えてしまうのです。
象徴的な事例が、道の駅への出金を、出資等に伴う権利を保有しているとして何年も決算書に計上していました。
どこの世界に、証拠書類のない、出資に伴う権利があるのでしょうか。
日本はおろか世界のどこでも通用しない主張です。
簡単に言えば、
「現金千円を、持っています。」
「それでは、それを見せてください。」
「持っていないので、見せれません。」
ということと同じことなのです。
どうして、持ってもいない権利を持っていると主張するのでしょうか。
前町長は答弁拒否、現町長は見解の相違という言い逃れ。
町幹部も、町議会議員も、だれも、杉村ひろしの主張に、正面から反論できません。
(現在時点で、理解され、町の決算は誤りであったとされているのは、足立義明議長のみ)
町行政中枢に居られた方は、「そのような小さなことに、どうして、そこまでこだわるのか。」
あきれて、開いた口がふさがりませんでした。
小さなことと認識しているなら、さっさと改めればいい。
小さなことの改めができなくて、どうして、大きなことを改めることができるでしょうか。
彼らにとっては、大きなことだからです。
証拠書類を確認できない監査委員、町議会の決算認定、町行政の姿勢、全てひっくり返ってしまう。
改めようとする勇気は、岩美町行政にありません。
そのようなことで、高校生や中学生などの次代を担う方々が、岩美町に誇りを持っていただけるのでしょうか。
そのようなことで、職員は、惑わないでしょうか。
当たり前のことがそのまま通らないのであれば、いちいち確認しなければならない。
職員の能力が著しく阻害されます。
だから、職員は死んだような眼をしている、元気がない、上の人ばかり見て住民への気配りがない。
そのような声を、杉村ひろしは住民の方から、
元の職員としては聴きたくない部分もあり、
かつ、聴かなければならない使命感もあり、
聴かせていただいています。
行政の無謬を押し通す理由は、だれも責任を取ろうとされないからです。