「わかることの喜びと難しさ」(2023.5.13日経の書評)で、
書名「数学が見つける近道」
著作者:マーカス・デュ・ソートイさん
が、紹介されていました。
書評者は、森田真生さんでした。独立研究者(?)さんということです。
書評の中ほどなどに、
より短い手続きで同じ結果にたどりつくことが「近道」だとすれば、近道の可能性は、扱う対象について深い理解があるからこそ開ける。
コンピュータよりもはるかに遅く、記憶容量の限られた人間の脳は、いつも切実に近道を求めている。
だからこそ、
何かが「わかる」という経験に、大きな喜びを感じることもできる。
わかることと近道は、表裏一体の関係にある。
人間なら一生かけても終わらない計算を、ほんの半日で済ませてしまうコンピュータには、近道を求める切実な理由もなく、わかりたいという欲動もない。
近道や、わかる喜びは、遅く、記憶容量の少ない人間の弱さの賜物である。
などとされていました。
評者は、コンピュータの気持ちが、お判りになるらしい。
僕には判らない。
ただ、
ヒトである僕は、近道が好きだし、寄り道も大好き。
近道は、新しい発見の可能性がほぼ無いと思っている過程をできるだけすっ飛ばして、所期の目的に早く達することができるし、
寄り道は、想いがけていない新しい発見の可能性がある。
そんな、近道を、切実には求めないとされるものがコンピュータなら、
ちょっと、ヒトとは折り合いにくい。
最先端であっても、今のところは、道具の範囲。
でも、本当に、そうなのだろうか。
段階が上がる、
それも、加速は級数的に。
レベルが高いほど、そのレベルが高くなることは加速する。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」
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