人間の心を10種類に分類し、その、下(?)から2番目が餓鬼と仏教で諭されています。
「餓鬼草紙」(2023.5.25日経の声が聞こえる)で、
平安時代末期に製作されたという描かれている「餓鬼草紙」が紹介されていました。
紹介文の最初のほうには、念仏を唱える僧侶などから聴こえるとして「声がきこえる」と説明されていますけれど、
この草紙(絵画)が、主に伝えたい「声」は、
「餓鬼草紙」と呼ばれる如く、
やはり、
3匹の餓鬼として描かれた男や女の「声」だと、思います。
着る物などなく、素っ裸の、
その姿は、
痩せこけて、手足や首は骨のようで、目は血走り、頭髪はざんばら、
その一方、腹部は異様に膨れ上がっている。
時折目にする、途上国や戦乱が常在している国の子供の姿が目に重なる。
大人になっても、そのような姿を、人でありながらさらさざるを得ない状況が平安時代末期にはあったということだと解釈します。
さらすなどと、人目をはばかれるその人の状況ではまるでない。
そう捉えます。
人間の心のひとつでありながら、
なぜ、3匹と数えられるのか。
餓鬼とは、眼前の事象に固執する状態だとされていますが、
そんなことは、僕の日常生活の中で、当たり前に存在する。
在る場面では、
僕も、一匹の餓鬼、ということになる。
餓鬼として描かれた男や女の「声」とは、いかなる「声」なのか。
説明では、
水を求めて忍び寄る とされている。
描かれた餓鬼が、目前の事象に固執しているとして、求めているとされているものは、水。
僕が求めているものは何なんだろう。
よほど、描かれた餓鬼よりも罪深い。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」
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