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迷惑をかけよう(おもしー541)

そうだよなあ。

と 読ませていただいている和田秀樹先生の御本の広告より

「どうせ死ぬんだから」(2023.12.24朝日)に

死ぬ時ぐらい迷惑かけよう

ともありました。


まあ、

ヒトは生れ落ちてそれなりに独り立ちするまで、

それなりの段階が何段階もありますが、

周囲を含めた人々に迷惑をかけ続けてきた。

広告を見て、まずはそう思いました。


ただ、

そのあたりの迷惑のなかには、誰しもあまり迷惑と思っていないところが生命連鎖の心憎いところ。

心が蕩(とろ)ける赤子や幼児の笑顔。

ドバドバ、幸福ホルモンがあふれ出す。

競ってかわいがろうとするヒトのいかに多いことか。


翻って、死ぬ時だって生れ落ちた時以上に身体不自由。

違いは、生まれたときには必ず誰かいるということなのに、

死ぬときは、独りで逝くこと。

誰かいていることがあったとしても、その状況の把握が困難になってゆくことは確実。

(まあ、生まれたときには、探しているのだろうと思う。忘れたけど。

亡くなる時にはヒトを探していないと思う。)


生まれた時だって、

死ぬ時だって、

身体不自由なんだから、

迷惑をおかけして当たり前なんだ。

そう観念しているけれど、

身体がそこまで不自由になる、そこに至るまでに、

いろんなことを捨てておきたいなあ。

捨てるというと何か重いものを持っていたような。

たいして重たいものを持つ能力はない心身ながらも、

須らく身軽になりたいもの。

身も心も共に。


そんなことを考えただけで。

ああ。

なにか、

背中に羽が生えた如く、この身が浮き上がって来そうな感じすらある。

身軽になればなるほど、

おかけすることとなってしまう迷惑なるものも些少になっていくのでは。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」


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