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普天間から辺野古への米軍基地移設に賛成できない。

 岩美町議会に対して、陳情された、沖縄県による「辺野古沿岸埋め立て承認撤回の意志」を尊重するよう日本政府に求める意見書提出についての陳情について、平成30年9月21日に賛成討論しましたが、賛成者は2名、反対者は9名で否決となりました。
 以下は、賛成討論で、言い尽くせなかったことも加えたものです。

 普天間から辺野古への米軍基地移設に賛成できない。

 日本が主権回復した1952年に、本土には13万5,000haを超える米軍基地があった。現在はそれの6%弱、7,800haに減少している。減少した理由は、米軍基地が存在していた本土の地域で米兵による事件、米軍による事故が発生し、本土の方々が米軍基地の撤去を求めたことだ。それに対し、沖縄には、なお1万8,500haの米軍基地が残っており、日本国内として、米軍の専用施設が7割を超え、偏在の現状だ。米軍基地偏在の問題は、沖縄で現れている問題だが、沖縄の問題ではない。本土から撤退させてきた本土に住まう私の問題だと受け止めたい。

 また、米軍跡地に造成した那覇新都心の場合、返還前と比べて直接経済効果が32倍、雇用者数は93倍に増え、基地がないほうが発展する事例とされている。それは、まさしく基地を撤去させて経済発展してきた本土でもあるという部分とも重なる。

 そして、鳥取県岩美町は沖縄県国頭村と、児童を中心として交流をさせていただいている。国頭村は、戦後1,800人もの避難民の流入があった地域であり、世界のウチナンチュウの大会を2回も開催した、沖縄の中でも、沖縄人として誇り高き地域だと思っている。同村の方々全員の総意は計りかねるが、沖縄における米軍基地の過重負担は、多くの方が身に沁みておられると思っている。沖縄の、国頭の、方々に寄り添う考えを岩美町はすべきである。同村の役場が所在する辺士名(へんとな)と辺野古(へのこ)とは、直線距離で30kmない。同村の方々にとっては、米軍の訓練ルートもさらに身近となり、他人ごとではない。

 さらに、岩美町出身の初代国連大使沢田廉三の妻、美喜さんは、神奈川県大磯に孤児院エリザベス・サンダース・ホームを1948年に創設した。なぜ、同施設の必要性があったのか。米軍基地が日本国内にあり、日本の市井に米兵が身近な存在、アメリカ社会が日本社会と重なる部分があれば、幸せな出会いかどうかは問わず、自分の出生に何の責任もない子供たちが生まれてくる。その子たちの中には、一人で生きなければならないこことなってしまう場合もあり、美喜さんは同ホームで受け入れてきた。
 そして、子供たちが成長し、小学校、中学校に上がる年齢になると、周囲の「混血児」への偏見迫害や、学校生活との折り合いの問題などへの対応から、ホームの中に1953年に小学校、そして1959年に中学校も設立している。
大磯には日本最初に開設された海水浴場があるが、そこから直線距離で450kmほど、遠く離れた鳥取県岩美町、当時の汽車事情で何日の移動時間を必要としたのだろうか。移動中、周囲の奇異の目に耐えながら、岩美町の浦富海岸の熊井浜と呼ばれる実質的なプライベートビーチで、子どもたちは、周囲の目線を感じることなく、夏の束の間、美しい砂浜、明るい海域を楽しんでいただいたと思う。以前、岩美駅から熊井浜にある沢田家の別荘まで、約3kmぐらいを、美喜さんや子供たちの歩いて向かう姿を見た町民の方の感想を聞いたことがある。「いろいろな肌の色だった。」岩美町においても、子どもたちに対する印象は大磯と大同小異。戸惑うことが多かったのではと思う。では、現在において、そのように歩いている姿があれば、その当時町民の方が受けた印象とは違っているのだろうか。これも、大同小異、大して変わっていないと思う。アメリカ社会が身近に存在するということは、日本の人々を緊張させる。その現実が、未だに沖縄にはある。
 沢田御夫婦お二人の墓石は岩美町浦富にある。岩美町こそが、沖縄に寄り添う気持ちになるべきだと感じている。

 なお、日本国憲法と日米安全保障条約は、今の日本国民の多数に是認されていると受け止めており、私も事実として是認していることを前提として、米軍基地偏在を議論したい。

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