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伊能忠敬様(おもしー235)

かっこよすぎます。

憧れます。


商才を発揮し、45億円。

そのうち、30億円を我がものとし、自由に人を動かせることができる道具(お金)を保持し、

隠居して、自由な時間を得て、

少年よりの好奇心のあったことの知識を深め、

その世界のなかで、日本で初めてのことを成し、

個人の功名心に止まらず、後世の人の役に立つことを、誰もが目に見える形で示す。

お生まれになったのは、1745年。

お亡くなりになられたのは、1818年。

と、満74歳、数えで75歳。

タイトルのとおり、江戸時代の中期に生きられた伊能忠敬様のことです。

(憧れを込めて、様付けしています。)

とても、失礼ながら、簡単に、御生涯を次の記事をもとに書きました。

「隠居後はわがままに」(2023.2.24日経のゴールの流儀)


町役場に就職した40年前、給与の仕事もさせていただき、退職手当の手続きも行っておりましたが、

その頃の定年は55歳(男性)だったと記憶しています。

(女性は52歳か53歳で、当時も男女の格差がありました。)

そんな昭和の時の定年である55歳から、

お亡くなりは今から200年以上前の時代であるにもかかわらず、

最初の測量に出かけられた。

そして、17年、72歳になるまで地図作りのため北海道から九州まで3万5000キロも歩き続けられた。

事業を下支えしたのは、道具(お金)。

10次にわたる測量の旅の第3次からは100%幕府の資金が投入されたものの、それまでは忠敬様の個人資産で実施。

スポンサーの幕府も、どこまで信用していいのか、どんなものができるのか、当初は疑心暗鬼の部分もあったのでは。

したいのなら、自分の金でしてみなさいな、そんなところもあったかもしれません。

解説されているように、事業の当初は「忠敬の個人事業」ということのようです。

そして、第1次の180日の旅で、蝦夷地の地図を幕府に提出し高い評価を得たということですが、

このあたりは、どうなのでしょう。

21世紀の現在において、歴史や地理を知っている僕たちが、

忠敬様の図を見て、(知っている日本地図にそっくりだと)驚くのは、ある意味、反則。

どなたも、宇宙空間から、蝦夷地を見たことが無い時代に、図を見せていただいて、素直に、素晴らしいと、僕であれば、言えるかどうか。

たぶん、責任が重ければ重いほど、すんなりとは言えない。

よほど、その図に、説得力があったのでしょう。

(僕は、未だ、直接、忠敬様の図を見ていないので、見てみたい。

何処に行けば、いいのだろう。調べてみます。

伊能大図と呼ばれるものは、50メートル四方になるそうです。)


書けば書くほど、長くなる。

詳しくは、ウイキペディアなども参照なさってくださいませ。


ともあれ、

歩き続けていた部分が、当時にあっての、御長寿となられた部分もあるのかもしれません。

僕も、中途半端ながら、

見習いたいなあ。

道具作りや、体を動かすこと。

それに、子供の頃からしてみたかったことって何だったかなあ。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」


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