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若さや健康を失えば自由を手にする?(おもしー247)

そうなのかもしれません。

若さや

健康、

そんなことも、ある意味、

そうあって欲しい

そうありたいと願う

自分にとっての、呪縛を課している部分があるのかな。


「老いという解放」(2018.5.14日本海の新著の余禄)で、

落合恵子さんの「泣きかたをわすれていた」が紹介されていました。

テーマは重厚だが、

読後感は不思議と軽やか。

「老いる」とは、若さや健康を失うばかりではなく、

あえてそれらを手放した代わりに、

大きな自由を手にすることなのかもしれない。

そんなほの明るい思いが、胸に残る物語だ。

最後のところには、このようにありました。


書評の飛ばし読みで、

すれ違いのところばかりだと思いますが、

やっぱり、

街で、すれ違う若い方々は、

特にこの時期、卒業式が済み、何人かで連れ立っている。

とても楽しそうで、笑顔があって、こちらもなにかうれしくなる。

どなた様にも、そのような時があったのと。

そんなときに戻ることはできないことは、それこそ言わずもがな。

考えることさえ禁忌のような。


誰の人生も、今日の一日も、初めて経験する。

生きているこの時により、

自分の歴史は、刻々と刻まれている。

そりゃあ、昨日よりも一日、昨年よりも一年、年老いている。

表現がマイナス的ならば、熟成している?


確かに、歳をいただいてきて、心の自由度は増してきたような。

単に、

いくぶんの我がままを、

周囲が許容せざるを得ない年齢になりつつあるのかもしれませんが。

でも、

過分なまでに、若さや健康に、固執しないようにしてみればとも思っています。


少しばかり気をつけているとすれば、

やっぱり歩き方。

べつに、何の恥ずかしいこともない。

胸を張って、春風を切って、後ろ足をしっかり張って、ぐいぐいと。

ウインドウに映る姿を、遠目の横目で見る。

春なのに時折の冷たい風なのか、それとも花粉なのか、

なぜか、鼻水が垂れることは、御愛嬌ぐらいのこと。

そんな感じで、バイト先でも歩いている。

気持ちよいと思っているから、そうしているし、

歩けば、何かの可能性が拡がるような気配も。


ただ、やはり、

自分に課していることがあるならば、できるだけ軽減したい。

あまり、前向きになれないことであればなおさら。

年齢を重ねて、それのできる部分が大きくなるのであれば、

それはその分、自由を手にすると言っていい。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」


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