放流したら、逆に魚はいなくなる
放流が大規模な河川ほど魚の数が少なかった。
放流で一時的に数が増えた魚は河川を独占する。他の種類の魚はエサにありつけず、すみかを追われる。 同種同士でも争いが起きる。 河川にすむ魚が共倒れする。
同じ遺伝子が増えると多様性を失い、環境の変化で滅びる危険
天然のウナギがすむ河川に養殖ウナギを放流してもほぼ生き残れず、数を増やすのは難しい
放流が人間のおごりの象徴となるのか
日本は国が旗を振り、 放流大国だ。
などと、
「「放流で魚が減る」波紋」(2023.2.26日経の科学の絶景)にありました。
漁獲したい種の稚魚を放流しても、その稚魚の住むこととなる河川のキャパシティーを超えるようなことになれば、
そりゃあ、
元々いた魚の、エサもすみかも、放流された魚のそれらも、足りなくなってくる。
川に魚がいなくなる。
そんな論文などが紹介されています。
一人暮らし向けのワンルームに大人数は暮らせないとも書かれています。
なにか、人間様のことが書かれているみたい。
一時的に数が増えた種(人)は、場所(地球)を独占する。
他の種は食べ物にありつけず、すみかを追われる。
同種同士(人間同士)でも争い(経済という名を付けられている奪い合いや戦争)が起きる。
同じ遺伝子(たかだか20万年前からのホモサピエンス)が増えると、多様性が失われる
放流(1万年ほど前からの温暖な環境と、それに伴う文明の発展で可能となった食料増産によるヒトの口の数の爆発≒神のおぼしめし?)が大規模な場所(惑星)ほど生命個体の数が少なかった。(と、いうこと?)
放流がなにかの意思のおごりとなるのか
それでは、
放流されたそれぞれの魚の個体は、どう生きていけばいいのか。
争いを、やめる、やめさせる、ことに至れない種の個体(僕のこと)は、なにをすればいいのか。
目の前の、日常のことばかりに、限りある体や頭を使ってしまっている。
今日もまた、趣味などと、愚にも付かないくだらないことに、一日を費やす。
お天気の予報は、雨のち曇り。
心が晴れないけれども、晴れの日ばかりも、よろしいことではない。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」