語(かた)ることは、所詮(しょせん)、騙(かた)ること。
と
(2023.7.1朝日の連載小説「暦のしずく」)の中にありました。
僕のアンテナが低いためなのでしょうけれども、
最近、新聞を読んでも、
へー、そうなのか、といった記載になかなか出会えない。
だいたいは、
それでどうなの?
なんでそうなの?
だからなに?
(理解力・洞察力・知識の無さを笑ってくださいませ。)
そんな時でも、
小説には、
自分にできない言い回しや自由に使い廻せない語彙があり、
作者の日本語能力にも敬服するところ大。
件の小説は沢木耕太郎さんの作であります。
さて、
「騙る」とは、もっともらしく、巧みに話しかけるというような意味であり、
僕の、この「おもし」だって、騙っていることと大差ない。
自分としては、もっともなことだと思っているけれども、
そう思っている僕は、あらゆる面で、底が知れている。
(どちら様も、信用なさらないように。)
ただ、
そのように思っている、そのように解釈している、
そんな人間は確実に居て、
(少なくとも一人は、)
それが多いか少ないかで、世間様の流れが造られている。
そんな部分が大きいのではないかと感じています。
何方様も、申し訳ありませんが、大概は、底が知れているのです。
だから、誰も先のことが解からないで、右往左往してしまう。
真(まこと)の実(みのり)には、なかなかたどり着けないなあ。
本日、七夕。
1年前の7月7日に、この「おもし」を始めさせていただいて、
自分の言葉で、自分の思ってしまったことを、自分の解釈で、自分の頭で整理して
(整理できていないとのご批判もおありでしょうけれど、)
ともかく、
ここに、公にしてきました。
今日が、360で、昨日が359ですので、
始めて少しばかりは、毎日ではなかったなあ。
この間、書いていないことで、紆余曲折も有り、
内職も、プラス、マイナスそれなりにあり、
総じて、実利も含めて、自分のためにはなっている と 思っています。
自分の頭で考え、頭の中で時間を置いでも整理したりすることは、とても大事だと実感します。
そのために一部現わしているものが、この「おもし」でもあり、
当面も続けたい。
ここは、あくまでも、僕の「騙り」でありますが、
これが、僕にとっての、真実に向かおうとしている段取りの一部のようなもの。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」