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何処で亡くなりたい?(おもしー437)

何処で亡くなりましょうか。


「家で死ぬということ」(石川結貴さん)(2023.9.16日本海)では、

住み慣れた自宅で最期を迎える「在宅死」という選択肢。

父親は健康自慢 転倒 末期の腎不全 入院や施設入所を拒む

さまざまな現実の「壁」

病状が重いのに介護保険は「打ち切られ」

地方都市では クリニックが見つからない

父親のみとりを経験し、「自分は家では死ねない」と思った

などと、「在宅死の実際、生々しく」と紹介されていました。


どこかの図書館で借りて読んでみよう。

その時生きていればね。


自分の死は近づいています。これは確実。

日々はそれを横に置いているだけ。

ただ、年齢を重ねることで、一直線に、人生が下降しているかというとそうでもない。

健康診断などの状況証拠で、近くなったり遠くなったりするような。

そんな錯覚の中で、今を生きている。


そして、

何処で亡くなろうが、そんなことに、あまり意味はない。

と 思っている。

どっちみち、地球の地殻の上あたり。

ただ、その場所に居る人々に、多くの手をかけていただくことになる。

人がいなければ、そんなことは無い。

その時に。今なのか、明日なのか、その違いに大きな意味があるのだろうか。


著者が宣(のたま)わく。

「自分は家では死ねない」と。

僕も、そんなふうに今の時点では思う。

そもそも、その時に、そんな選択ができる余裕があるのだろうか。


健康自慢とは、同世代などの方々に比べて、健康と言われる状態に近いと自覚・錯覚していること。

そうであってもそうでなくとも、自慢はしたくありませんねえ。

ありのままでいたい。

医療や介護も、付属的なもの。

あれば利用しても、利用しにくければそれまでの話。

都会や地方の存在も、動かしがたい現実。

ほんに、世界の動きなどに煩わされる、そんな日々から距離を置きたい。


あ~あ。年寄りの自分の臭いが、漂っているような。

ちょっと、バイクで、風を切り裂きますか。

でも、今、午前6時過ぎ。

さっきまで、強雨。今もよく降っている。

しかたないなあ。4輪で出勤します。

事故死の可能性は少し低減します。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)


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