「バランスと鍛錬法」(2023.9.28日本海の歳々元気)では、
筋肉の付き方に左右差が現れ、 体のバランスが悪くなってしまう。
左右の目の視力の差が大きかったり、炎症やけがなどで空間感覚をつかさどる内耳の働きに左右差が生じたりすると、めまいや立ちくらみが起こる。
視覚に頼らないことでバランス調整機能が鍛えられる
などとありました。
どうしても、利き手、利き足、がある。
そちらをよく使うから、更にそうなる。
さらに、そもそも、ヒトの両足の機能には役割分担があって、左足で体重を支え、右足で方向を目指すと読んだことがある。
習い事の、蹴り。
左足で体重を支えて、右足で蹴ることは比較的やりやすい。
(あくまで、自分の能力の範囲の中での話)
その逆。
右足で体重を支えて、左足で蹴ることは、とてもぎこちなくて、足も上がらない。
でも、できるだけ左右均等に練習している。
上半身もそう。
突きも、左右同じくらいの量を行う。
腕を見ると、
以前は、利き手が太かったけれど、
今は、同じように見える。
足腰は見てもよくわからないものの、
姿見に映る影は、シンメトリーのような。
40年ほど前の話。
行路人の方が訪れる。
隣の駅までの旅費相当額を渡す。
その時、署名をしてもらう。
その署名をしてもらうのを、話にのめり込んでしまい忘れていて、あとから自分で書いた。
(これはいいことではありませんが、もはや時効でしょう。今でもそんなことしているかどうか?)
この時、利き手ではないほうで書いた。
後から、担当の方に、その見事な、乱筆ぶりを褒められた。
とてもいい。行路人の方が書かれたようだ。
褒められることということになるのかどうか?
行路人の方にも失礼な。
文字を書くことは置いといても、
ともあれ、
めまいや立ちくらみに遭いたくはないし、
左右差があれば、身体にとって、たぶんいいことにはならない。
ん?
なんで、左右のことを左右(さゆう)というのだろう。
左右のことを、横断歩道では「みぎひだり」というのにね。
また、左右という概念・単語を持たない民族・言語もあるそうですよ。
上下は重力、前後は進行方向。左右は自分で決めて使うみたいな。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)