• 記事検索
RSS

人生は一本道(おもしー488)

そう考えると、

心が軽くなり、浮き上がるようです。


人間は神ではないので物事の全体を見ることなどできません。

そのためおのおのの部分だけを見て、

あたかも違うものであるかのように思っているだけなのです。

選択も同じでしょう。

だから何かを選択したら、もうそれしかなかったと思えばいいのです。

人生は一本道です。

分かれ道があったかのように見えますが、

本当は自分が歩いてきた道しかないのです。

完璧ではない私たちが、失敗だらけの人生を後悔せず、肯定し続けるためには、そんな発想が求められるような気がしてなりません。

などと

「すぐ後悔 そして引きずる」(2023.11.4読売の人生案内)にありました。

そこでは、中国の思想家、荘子の万物斉同が紹介されています。


くよくよしたって仕方ないけれども。

ああしておけばよかった。

終わったことなのに。

いやいや、

終わったことではなく、そのことはこれからも続いていく。


大きなことだと思えば想うほど、

致し方なかったと観念したほうがいいのだろうか。


例えば、

日本人の誰もが知っている豊臣秀吉さん。

彼が生まれたときの日本列島には2000万人ほどが生きていたとして、

(生国が畿内に近いとの地理的な有利さは置いといても)

(一人だけの力で成し遂げたわけではないことは前提でありながらも)

ともかくも、

長い戦乱の世であった日ノ本に、一応の安寧をもたらした。

それを2000万人が望んでいたとして、

一人だけがその功績の栄誉を受け、

1999万9999人は

あの時こうしておけばよかったと、どこかで思っている。


「どうする家康」とおなじく、

どなたにも「どうするあんた」と

心の中で、自分が自分に問いかける。

そのことがすでに神の領域に入りつつあるということなのか。

人が歴史ものを好む理由のひとつには、

結果を知っている、

つまり、神の立場に立っていながら、

そのときの、

(いつだって先が読めない人の)

判断を、

おろかなと感じる部分があったりする中で、

自らの優位を感じてしまうことにあるのかもしれない。


全体像なんて見えない。

見えないから、用間(スパイ)や忍びのもの草のものさんを用いたり、

高いところから鳥瞰したり、

全体からすれば自らの乏しい知識で思考を巡らせたり。


そして、

人生は一本道。

しかし、

この考え方は、一方で、とても危険で麻薬のような臭いがする。

今は、そんな考え方もある、

精神が病むような追い詰められるような時には、

処方していただこうかと思うに留めようと、

回答者の哲学者先生に、僕だったら申し述べたい。

勿論、このことこそが、

先生の言われていることの全体像を知悉して申し上げているわけではないという前提です。

外は、冷たそうな雨が降っていて、雨音が響きます。

このことだけは、今、確実だと言えますけれど。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)


コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):