生命を受けてしまった個体が、
その最後を迎える時はたった一度。
事前に経験できないので、
そのことを考える時、仮想の思い巡りをする。
加えて、どなたかの現実を見聞きする。
身近な方の時であれば、自らに与えられる想いはより大きくなる。
そして、世界には、人の死が満ちている。
「父が望んだこと」(2023.11.10朝日のひととき)に
死は、親からの最後の教育だ。
自分らしくかっこよく生きた父
と
ありました。
詳細はお読みくださりませ。
また、丁度、今、
「家で死ぬということ」(石川結貴さん)を、
近くの図書館でお借りして読み始めたところです。
第1章の最初の項目が、
「ピンピンコロリ」と言う人ほど、「コロリ」のほうを考えない
思わず苦笑しましたが、
何か他人事でないような。
教えを請いたいです。
最後の教育。
子どもという立場からすれば、
その親である方の死に直面する、
矛盾するような言い方ですが、
そのときの生き様に影響を受けることは大きい。
それを最後の教育と表現なされている。
ご立派だったのでしょう。
あ~あ。
僕の最後あたりの生き様は、反面教師になりそうだなあ。
先の図書を噛み締めながら読ませていただきます。
最後の
というタイトルにしたのは、
やはり、最後という人の言葉には、人の死が最も適しているように思う。
投稿者は最後の教育と言われている。
教育というからには、相手があるということ。
人の死にはいろいろあり、
どれにも、相手があるというわけでもないし、
相手がなければならないというわけでもないと思っている。
だから、
最後の の後に 付ける単語は様々。無数にある。
自分らしくかっこよく生きた
そんなことを言ってもらいたくもないような。
言ってもらいたいような。
あ~あ。
やはり、死に対して、達観は全くできていないなあ。
生に対する未練たらたら。
(個人年金の繰り下げ手続き書類が郵送されてきました。)
何歳までの寿命を想定しようかなあ。
いやいや。
そんなことは考えないほうがいい。
今日が来てくれたのだから、良しであります。
予報は、雨のち晴れ。
バイク通勤は諦めますが、今日もいい日になります。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)