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最後の(おもしー490)

生命を受けてしまった個体が、

その最後を迎える時はたった一度。

事前に経験できないので、

そのことを考える時、仮想の思い巡りをする。

加えて、どなたかの現実を見聞きする。

身近な方の時であれば、自らに与えられる想いはより大きくなる。

そして、世界には、人の死が満ちている。


「父が望んだこと」(2023.11.10朝日のひととき)に

死は、親からの最後の教育だ。

自分らしくかっこよく生きた父

ありました。

詳細はお読みくださりませ。


また、丁度、今、

「家で死ぬということ」(石川結貴さん)を、

近くの図書館でお借りして読み始めたところです。

第1章の最初の項目が、

「ピンピンコロリ」と言う人ほど、「コロリ」のほうを考えない

思わず苦笑しましたが、

何か他人事でないような。

教えを請いたいです。


最後の教育。

子どもという立場からすれば、

その親である方の死に直面する、

矛盾するような言い方ですが、

そのときの生き様に影響を受けることは大きい。

それを最後の教育と表現なされている。

ご立派だったのでしょう。


あ~あ。

僕の最後あたりの生き様は、反面教師になりそうだなあ。

先の図書を噛み締めながら読ませていただきます。


最後の

というタイトルにしたのは、

やはり、最後という人の言葉には、人の死が最も適しているように思う。

投稿者は最後の教育と言われている。

教育というからには、相手があるということ。

人の死にはいろいろあり、

どれにも、相手があるというわけでもないし、

相手がなければならないというわけでもないと思っている。

だから、

最後の の後に 付ける単語は様々。無数にある。


自分らしくかっこよく生きた

そんなことを言ってもらいたくもないような。

言ってもらいたいような。

あ~あ。

やはり、死に対して、達観は全くできていないなあ。

生に対する未練たらたら。

(個人年金の繰り下げ手続き書類が郵送されてきました。)

何歳までの寿命を想定しようかなあ。

いやいや。

そんなことは考えないほうがいい。

今日が来てくれたのだから、良しであります。

予報は、雨のち晴れ。

バイク通勤は諦めますが、今日もいい日になります。

そんなことをおもってしまいました。

「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)


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