いくつになっても、後悔先に立たず。
センテナリアンと呼ぶよりも百寿者と言ったほうが、
日本人の僕ではしっくりくるような、
かといって、
身近に居られず、実感が薄いし、
御当人にとっては寿(ことぶき)と言われることに抵抗感があったりするのかもしれないので、
やっぱり、センテナリアン様と申し上げたほうがいいのかな。
制度の面で、高齢者のお仲間入りをしたといっても、
僕の65歳なんて、まだまだ洟垂れ。
そんなイメージになってしまう寿命百歳の存在。
そんな方々にも後悔があって、
それは何か。
家族ともっと一緒の時間を過ごしたかった。
(≒もっと多くの子どもを持ちたかった。)
働き過ぎた。
(≒家族と楽しく過ごす時間を十分にとれなかった。)
旅をしなかった。
と
どこかのネット記事にありました。
それらは、
自然や人間社会の環境を鑑みて、子どもの数を制限してきた。
そんなことを、自らの後悔とすることによるようだし、
生命個体の移動できる範囲(太陽系第3惑星の地表上)で、生命の拡散の可能性を拡げたかった。
僕は、そんなふうに読んでしまう。
それならば、
後悔先に立ちませんので、その反対を行いましょう。
でも、
それができにくいから、
自然や人間社会の環境を鑑みてしまうから、
動こうとしないのだなあ。
あーあ、誰しも雁字搦め。
そして、
センテナリアン様に至れなくても、似たような後悔を行うこととなる。
そう、後悔しているような。
(今のうちから)
ちょっとできないかなあ。
少しはみ出して。
かすみがかかって見通せないけれども、
百寿の時には、迷惑をおかけするにしてもそれなりに関係を持った見知った方々もほぼ居られないことだろうし。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」
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