賞と呼ばれるものの評価や価値は、
与える側から与えられる側へ移動するものではなく、
与えられる側が与える側のそれらを高めるものだと思っている。
その行為が連綿となされていけばいくほど、
賞そのものに価値があるように受け止められ、
受賞することが、大きなことであると報道などがされることが多いけれども、
本来は、
与える側の選定者達が厳正で公平で大きな影響力の評価のための審査をすればするほど、
自ら、与える側のそれらを高める。
そう思っています。
中国の習さんが、
国内の体制固めにひと段落を付け、
中東の大きな国どおしの仲介も道筋がつけられ、
昨年から現今に至る戦火の停止のために、
表に現わさない目的がどうであれ、
行動しようとすることは、
自然な成り行きのように感じる。
ライバル国も、なにか、動きが少ないし、
今なら、中国独り占めにできるかも。
ロシアとウクライナの両為政者に会える人は限られている。
中米で評価を分け合うのではなく、
戦車部隊の本格的な動きが行われる前、
この3月の内に、
ここは、動いておいて、損はない。
また、動きますよと伝わることだけでも、効果がある。
そんな、お考え。
本日朝のネットニュース
「ロイター通信は13日、中国の習近平国家主席が早ければ来週にもロシアを訪問し、プーチン大統領と会談すると報じた。
一方、米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、習氏はウクライナのゼレンスキー大統領との会談も計画している。実現すれば、ロシアによるウクライナ侵攻後初となる。」
なんのために、両大統領と会談しようとするのか。
思惑満載で皆さんお忙しい。
ただ、
僕にはできないことをやっていただけるのであれば、
その方の思惑がどうであれ、僕は支持する。
それは、僕が、その方を使って動かすことと同様だから。
結果として、受賞があってもいいと思っている。
もらってください。
賞も、社会のなかの道具のようなもの。
形を変えた、特別な通貨のような。
それで、その賞の価値などが向上するかどうかは、
世界の方々が判断する。
いつものとおり、長々と書きましたが、
タイトルにしたノーベル平和賞のほんの一面について、
の感想です。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。)」