<悟りといふ事は如何(いか)なる場合にも平気で死ねる事かと思つていたのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた>
と
(2024.6.13読売の編集手帳)で、
死の3ケ月前の正岡子規の『病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)』が紹介されていました。
明日は生きていないにしても、今日は平気。
それって、誰もがそう。
明日、必ず生きていると知っている人はいない。
ただ、子規のように、(当時では)不治の病の結核を得て、脊椎カリエスで床に伏し、褥瘡等に苦しまれ、34歳で亡くなった人の言葉は重い。
そんな苦しみを受けていない僕のような者の言葉など、屁のようなもの。
悟りと思う思わないは置いといて、
平気で生きている。
それとも、
平気のように生きていく。
そうなって欲しい、ああ成りたい、思っていることに近づけなくて、
心身の痛みを逃れようとして、
とてもとても、平気の素振りはできないなあ。
ましてや、 平気で生きているなんて。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。」
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