「人間の寸法の場所」で生きる。
と
(2024.7.9日本海のいなば余談)にありました。
僕の人間としての寸法は、大したことないなあ。
それなら、
その生きている場所が、その寸法に合っている ということかな。
場所に余裕があるのか、
寸法がまだまだなのか。
(いやいや、縮小している?)
それとも、
寸法が収まりきらないのか、
場所がそれほどでもないのか。
なんか、ヤドカリさんみたい。
彼らに言わせれば、さっさと、宿替えしないと生きていけないよ。
僕らには、生死がそこにもかかっているんだ。速やかな判断と行動が。
昨日の咳ぜんそくリハビリ山行としての大山。
2週間前よりも少し余裕があった。
リハビリとの位置付けで、しばらくは1・2週間おきに継続したい。
山頂での空手の型を行うのも気持ちよい。
大山の日帰り山登りは、今の僕にちょうどいい感じのリハビリ。
夜明け前後や雨上がりの森や、沸き立つガスの中、空気がうまい。
そんな寸法(ほんの一部ながらも) のような 今日この頃。
そろそろ梅雨明けの気配。
良くも悪くもというか、
夏の居場所は、ただ単に、建物内で涼んでいては、身を亡ぼすような。
この夏はどこの場所で、身を削って(それは身を構築することだと思って)生きましょうか。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。」
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