「『天地神明に誓って』とか言う奴は百パーセント嘘つきだ」と連れ合いにつぶやくと、それが妙に受けたらしく、以来、わが家ではよく天地神明に誓うようになった。
天地神明(=天地の神々)や仏、菩薩、先祖、家族など、さらには自分自身でもありうる。
などと、
「釣り合いがとれた 本当の相手は」(2024.8.4朝日)にありました。
まあ、僕的に、もっと正確に申し上げるならば、
人々は百パーセント嘘つきだ。
その中でも、大袈裟に箔を付けようとする人は、神の名を、借りて、使って、尤もらしく 物申す。外から見て、実にわかりやすいうそつきだと言っていい。
(嘘を言っている自覚がない場合も多い。)
だから、茶化して、お宅の中で使ってみることはおもしろい。
だいたい、実現するかどうか心もとないことも多い。
だから、つい、誓ってしまうこともある?
それらの誓いの対象を順次そぎ落としていくと、
最終的には、やっぱり自分自身になる。
自分自身でもありうる という表現は、そぐわないと思っている。
神も仏も 自分が自分を見ていることを、その見ている自分ではないもののように客観的な風を装い、見てくれる立場を求め、心に構築されていること。
できれば、
誓いのような、負荷を心に与えるようなことは、できるだけ遠ざけたいなあ。
しかし、心中に秘めたる思いは、いつか必ずなど、どなた様にもある?
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。」
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