連想したのは、
十字架に張り付けられたイエス・キリスト。
そんなことではないのだよとどこかの司教様が諭されるのかもしれないけれども。
都会の闇の中で生きざるをえない人たちの孤独と悲しみを、
自分を傷つけることで引き受けようとする。
そんな彼の優しさが共感を呼んだ。
と
「死は予想された結末か 尾崎豊「放熱への証」」(2024.10.31日本海)にありました。
地獄の闇の中で死ねないまま虚無と絶望に沈み込む。
と
書き換えてみたりもする。
都会の闇 そういえばそんな言い方をよくされる。
都会ではないところでは 闇は 無いのか。
尾崎豊さんの歌をうまくは歌えないけれども、時折口ずさむ。
抗いながら生きざるを得ない。
誰だってそういう面は多くある。
悲しみ、辛さ、独りぼっち・・・。
亡くなったのは1992年4月25日と記載されている。
もう30年以上経過。
孤独と悲しみを引き受けようとする。
どこかの〇〇〇さんに聞いてもらいたいとも思えないなあ。
人に期待してもしょうがないので。
身を切る優しさを自分も持ちたい。
・・・・。とまあ、あたりさわりのないことを書いてしまったけれど、
彷徨いながらの行き当たりばったりのようなことで日々が過ぎ去っているなあ。
そんなことをおもってしまいました。
「おもし=新聞記事などを読んで、おもってしまったことです。」
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